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考える言葉

心記

2021年04月27日

『渋沢栄一の「生き方」を磨く』という書物の中で、「読書の真髄は"心記"にある」という一節に出逢う。
 渋沢栄一は、人生において、夢と成功を実現する最高の方法の一つとして「自分の血となり肉となる読書法」を習慣化させることの重要性を説いている。
 小生も小さい頃から、誰彼となく、「しっかりと本を読む習慣を身につけなさい」と教えられ、そう心がけて生きてきたと思う。
 読書といえば、いつも思い出すのが、学生の頃にスナックのカウンターで隣り合わせた人のことである。ある大手企業の研究所員だったと思うが、その当時読んだ書物の内容を話しているうちに読書論になった。
 「若いときの読書は、自分の血肉になるからしっかり読んでおいた方がいいよ」と助言された。そこで、「先輩、大人になってからの読書は血肉にはならないのですか?
」と聞き返すと、「若いときほど血肉にはならないね・・・。でも、読書は他人を理解するためには必要だね」という返答があった。
 そのあと、意気投合して、下宿に招かれていったら、ビックリ。所狭しと、いろんなジャンルの書籍が並んであった。お薦めの本を何冊も借りて、読んで返しては又借りを繰り返す日々があった・・・。
 さて、渋沢栄一は、古人の読書法について、いろいろと紹介をしたうえで、「読書の真髄は"心記"にある」と喝破した。"心記"とは、「心に刻みつける」という意味だ。蓋し、名言だと思う。
 最近、ある人と話していると、「今、読んでいる本があって、もう10回以上読み返した」という。小生にも、座右の書、座右の銘なるものがあるが、そんなにも繰り返し、精読したことはない・・・。
 考えるに、"心記"となることを心掛けるとなれば、それくらい読み返すほどの執念というか、真摯さが必要ではないかと思った。
 確かに、以前に読んだ名著を読み返す機会がときどきあるが、その都度、新しい気づきに出逢うことが多い。その時の心境によって関心の個所も変わってくるのだろうが、読書の奥に深さを感じさせられる。
 読書法で、精読がよいか、多読がよいかという議論があるが、渋沢はどちらでもよいという。多読でも"心記"はあるだろうし、座右の書であれば当然、精読を心掛けるであろう。
 「読書三上、馬上、枕上、厠(し)上」(古人)という。かつ、"心記"を心得たい。
 
                                                              考える言葉"シリーズ(21‐17

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